頽廃の沼滞在記

シアワセはゴールドムーンより高価

エンドロールの決め方

こんばんは。今年は早仕舞いにしたので、今日から年末スケジュールです。やったぜ。

この記事は某鯖アドベントカレンダー #死 についての記事です。あといくつ寝るとなんて時節に何てお題で書くんでしょうか…。

しかし、冬は死の季節であり、新年は新しい旧年に別れを告げるわけですから向き合っていきましょう、"死"に…。餅とかこの季節によく運んできますし。

せっかくなので、ここ2年ほど大して更新していなかったブログにたっぷり自分語りを厨二感マシマシマシで書き込んでおきます。

さて、私が人生で最も死と共に時間を過ごしたの5年前になります。喉元過ぎれば何とやらで、当時の井戸の底の泥濘のような日々は遥か彼方のようであります。その頃の心を描くには最早僕は当事者意識が足りなすぎるので、過去記事を読んでください。昔書いた記事の謎テンションは見るに堪えませんが…。

 

nakase.hatenablog.jp

 

心という器は一度ヒビが入れば元には戻らないとは言いますが、正しく心に可塑性というのは存在するように思います。昔から微妙にメンヘラ気質はありましたが、この希死念慮くんとの2人暮らしを経てから明らかに心は淀み、それによって生の見通しは濁りました。生きていくこと、今後の生活に対する強い渇望を描くことはほぼなくなったように感じます。

物心ついてから今の今迄まで僕は自分の今生きている時間軸以外の認知が非常に苦手で、特に未来のための何かをすることが著しく苦手でした。幸い、大部分の学習には影響はしませんでしたが…。

このアンチ未来指向は死の淵を超えて殊更に悪化しました。昨年、今後数年の未来を決定する大事な選択を迫られた際も未来を自分の手で選択しなければならないということに対して強烈な嫌悪感が湧き、得体の知れない恐怖と寒気に襲われ、車を運転すれば猛スピードでどこかへ突っ込みたくなり、歩けば空から何かとても恐ろしいものが自分を見つめているような気がしてきて気が狂うかと思いました。

明日目が覚めたら大地震がすべてを滅茶苦茶にしてくれたら良いのに…。

この身体の痛みが何か重篤な病で今までもこれからも全てを無意味にしてくれたら良いのに…。

そんなことを考えながら過ごした日々の中で自分の一つの性質に気づきました。

僕はどうやら、順当に終わるべき時と理由と場所を探しているようなのです。

今に関して大きな不満があるわけではないので、昔のように積極的に死を望むことはなくとも、未来を自分で確定させたり選んだりすることをへし折ってくれる何かの到来を心のどこかで期待しているのではないかということです。

これに気づいて自分はふっと楽になった気がしました。自分の中に潜む今への固執、死への渇望、恐ろしい日々の残滓が悪魔合体したペルソナにようやく名前を与えることができたからです。汝は我だったんですね。

しかし、それと同時に疑問もわいたのです。皆さんは自分の無限の可能性が収束していくこと、自分の望まぬ未来へ自らの足で歩むこと、来る死に対して歓迎の準備が出来ていないこと、どうやって受け止めているんですか?

恐ろしいなにかに囁かれるほど心が弱くもなく、誰か共に歩く仲間を持つ皆さんはどうやって自分の人生の転と結を描いて、決めて、受け止めているんですか?

僕は明日か来年か50年後かに来る冷たい安寧には怯まずに会おうとは思っています。もう歩き方を変えるには多くのものを落としすぎましたので、今という瞬間に後悔をしないように刹那的に生きてやろうと思っています。多くの人から愚かに見えるであろうとも、息の根心の音止まるときに食べ損なったご飯と飲みそこなったお酒と見損なったアニメのことは考えたくないので。何不秉燭遊。カルペディエムの精神です。

もし、僕の問いに答えを持たない人がいてもいいのだとは思います。こんなことを気にする必要もなかった人生はそれはそれはとても幸福であったのだと思います。もしくはどうしようもなくどうしようもなかったか…。

人生のエンドロールは決められなくても、来年のエンドロールくらいは決めておきたいものですね。露骨な季節アピール。人はそれを抱負と言います。または、ダイイングメッセージ。僕は来年は小旅行をもう少ししたいです(小市民)。

こんなインターネットの極北までわざわざ文字を読みに来てくださったあなたの来年が今年より一片でも幸多いものでありますように。

 

とは言っても死ぬのは怖い。せめて僕と君の最後が安らかでありますように。おやすみなさい。