頽廃の沼滞在記

シアワセはゴールドムーンより高価

remember memories

こんばんは。パジャマ着るのを前後逆にしてしまいました。

数か月分溜まったペットボトルのゴミを捨てながら、備忘録系の大手ブログ読んでエモくなっていたら、冬の曇った中なので悟ってきてしまったので、折角だから2019年を振り返ったことを書いていきたいと思います。実は時代に名を遺した聖者たちもこういうテンションで開祖やってきたのかもしれません。年末は楽しい気持ちでいたいのでこういう頽廃の沼からこんにちはするものはここに吐いていきましょう。掃いて捨てるほどあるでしょう?

振り返ってみれば今年はなだらかな年ではありました。掃いて捨てるほどもなかった。拭くくらいで済みそう。気づいたら、一年たっててびっくりしちゃった。去年このブログ書いてた頃をついさっきのように感じるぞ。そして、一年間で自分のブログも文章力もマメさも成長していないことがわかる残酷仕様。

それでもいろいろな変化はあって、人間が老いると年月の経過を早く感じて生活を平穏に感じるのは、こういう変化に対して鈍感になっていくからではないでしょうか。人間は変化量でしか物を観測できないので…。人間関係関係(観測範囲の人間の持つ関係、環境、属性)の変化はとても大きかった気がする。こうした世界が閉じていくと鈍化と老化が進んでいるんだなって感じになるのかもしれない。

まず今年も住居が変わっていて、今住んでいるところは過去最悪の立地です。家の前にシカが座っているし、スーパーが付近30分圏内にないし、地球じゃないし。それでも住めば何とやらのコスモス荘でどっこい生きていけています。今はアマンゾとかもあるしね。それでも付近に人間がいたらなあ、と思うことは多くて社会性の無さをネタにしてきましたが自分はウサギちゃんで孤独になると泣いちゃうんだなって感じでした。

枯れた傷口の水平思考

そんな環境に身を置いているので自分を見つめたり内向的に物事を考えたりすることが多くて色々気づいたり、考えたり、鬱になったり、笑ったり、泣いたり、歌ってみたりしました。自分は漫画を読むのがやっぱり好きなんだなって再認識したり、フェミニズム表現の自由のようなインターネットポタクがぴよぴよ言うような問題に対しても自分なりに考えをまとめられたり。

そうしてるうちに、自分はある程度物事を考えるのは好きだけど考える分だけすり減って、現実世界でのエネルギーとかを消費していることに気が付きました。昔はこんなに内向的に物事を考えてすり減った覚えはないので死者がこの世に繋ぎ止められて時に精神とか欲求とか活動能力に著しい傷が残されたんだと思います。人間の魂は可塑性を持つことがわかる。

けど、考えていなかった頃の自分の言動や文章は気持ちが悪くって、すり減って角が取れて、無味無臭に近づいた今の方がより摂取しやすくなっている気がします。これが出る杭を打っていた人たちの感覚で、僕も昔嫌っていたその他大勢になっていくのか…という恐怖でもあります。

もう社会がすぐそこで牙を鳴らしていて、数年後には削れ切った角では耐え切れなくなって僕もスーツで朝から擦り切れているのかと思うと空しくもなります。丸くなった今ですらそんな社会的な自分は想像できないけど、もう自分にはそこから外れ続けるだけのエネルギーも残っている気がしない…。枯れてしまった。

社会性は無いのに外れ続けられるほど甘い世界でもなく、大人になるのってとっても難しいですね。子供の夢が覚めても、大人になんかなれなくても、だからと言ってダメじゃない星屑な俺たちでいたいものですね。

 

今年も死を色んな影と形で見続けました。自分がそれを認知した時から脳の一部分を彼女に侵されているのかもしれない。終わることを考えて過程を描くのは間違っていて、結論と結末は別で然るべきなので僕はまだ悟るには早すぎるんだと思う。死の姿を見ても生の実感が湧かないバグも早く治してほしい。

とっちらかった話になって今回何が書きたかったのかよく分かんなくなっちゃったけど、とにかくもやもやしたものは吐き出せたからよしとします。毛玉ペッ。

今年は料理が大分上手くなったと思うので他人に食わせたいです。しかし、ここもまた行けど果てないのだ。荒野を行きましょう、人生なので。

おやすみなさい。