頽廃の沼滞在記

シアワセはゴールドムーンより高価

解像度の高さが生む悲劇

こんばんは。地球にやさしいイメージで営業しているのでグリーンにしてみました。

昼間に週末なんでウヌーンでも食いに行くかと思って、博多系豚骨を食いに行きました。注文とってる間に床に見たくないものが這っていて、客が僕だけでよかったね…となりつつ。ウヌーン店は客に見える見えないの差はあれどまあいるものだと思っているので…。

んで、食べてみたら以前に比べてスープがあっさり飲みやすく、麺がしなやかになっていました。豚骨スープは臭みが抑えられて、麺は河水率が上がったのか?食べやすくなった感じか?

 

けどさあ、博多系豚骨はちょっとウッとくる感じの豚臭さと、ともすれば粉っぽさにも感じ得る低加水の麺が食べたいんだよねえ。そうじゃないんだよお。

と思って店の人に麺変えました?って聞いたら「いや、変えてないですね。工場の方の工程で何か変わっているのかもしれませんが…」「出汁は変えたよ!」みたいな返答をもらいました。

いや変わってるでしょ。変わってなかったら相当茹で具合トチってるべ。てか博多豚骨系みたいな低加水麺で茹で加減トチったら溶けないか?出汁は分かるよ、好みから外れたけど。旨味はよく感じるから食べやすくした感じなんだろうね、もう少し塩っぱい方がバランス良い気がしたけど。

実際問題として麺やスープの変化に気付く人間があまりいなかったりするのでしょうか。食べたかった味が食べられなかったションボリで、来店直後のアレもじわじわと効いてきました。心に。

こんな哀しい気持ちになるなら味とか違いとかにとても鈍感でいた方が幸せなのでは。下手にお金使ったり欲求に振り回されたりしないし。って考えたところで金曜日の活動は終了。おやすみなさいしてました。おやすみなさい。

 

実際、人の苦しさを感じ取れる人の方が生きづらいでしょうし、耳がいい人の方が満足できる音源や機械のハードルが高いでしょうし、そういった人がストレス無く生きていくために必要なコストはそうでない人に比べてとても高いのでしょう。勿論、鈍感どころか不感の人はそれはそれで生きていくのに苦労するのでしょうが。

自分が違いの分かる人間だなんて驕ってはいませんが(ちょっと嘘。叩かれたくなかったり、上げたハードルにぶつかるのが怖くて予防線を張っているだけで、実はちょっとわかるかもと思っている。人間の小賢しさです。)、見えるものの範囲が広い人・考えられる対象の多い人・観測可能の閾値が低い人は相応に哀しい思いをしながら生きているのかと思うと、人として出来ることの多いことが必ずしも少ないことの上位互換にはならないのだとちょっぴり悲観を込めた思いで世の中を見つめてしまいます。

より彩り豊かに生きて、より多くの人を幸せにできる力なのにね。

せめてここまで駄文を読める忍耐強い人が幸せに生きられますように。おやすみなさい。